トップページ区政にチャレンジする理由 > 小池ゆりこ氏の知事選と新党立上げ(2016-17年頃)

小池ゆりこ氏の知事選と新党立上げ(2016-17年頃)

小池ゆりこ氏の知事選と新党立上げ前後

平成28年(2016年)7月の小池ゆりこ氏の都知事選前後の政局を振り返り、大政党に所属する地方政治家としての私自身の葛藤・心境の変化、この経験を通じて見えた本当に大切だと感じたことを記します。私にとっては所属政党が変わるなど大きな転機となった時期に当たります。

「自民党『除名処分』で向き合った政治の原点」

平成28年(2016年)7月の東京都知事選挙において、私は当時所属していた自民党の東京都支部連合会(以下、都連)の決定に反して小池百合子氏の陣営に入り、後日同都連から除名処分となりました。都知事選挙前後の政局は世間の注目を集め、小池氏陣営の7人の自民党所属区議は「七人の侍」とマスコミから呼ばれ、当時は連日のように報道されました。その後は地域政党「都民ファーストの会」の結成、同党が躍進した翌年の都議選へと繋がっていきます。

28年6月21日、舛添要一東京都知事が辞職し、7月に東京都知事選挙が行われることとなりました。
様々な候補者名が取り沙汰される中に小池氏(当時は代議士)も含まれていましたが、以前の都知事選でも小池氏の名前が挙がっていたため、私はさほどリアリティのある話とは捉えていませんでした。
6月のある日、私は用件を知らされず小池氏に議員会館へ招かれました。集まったのは小池氏の他、名前は差し控えますが東京10区(当時は豊島区と練馬区東部)の政治関係の重鎮が10名弱。議題は都知事選への対応であり、この時に初めて都知事選に関わる可能性が高いことを意識。この中に2期目の若手議員に過ぎない私が呼ばれたのは見込まれてのことだろう、と意気に感じました。
6月下旬、自民党豊島区議団(当時14名)内での協議では、小池氏が自民党から推薦が得られない場合の対応は意見が分かれている状態。
6月29日、小池氏は「崖から飛び降りる覚悟」と都知事選への出馬意欲を記者会見で表明。会見のタイミングは区議団にも知らされていませんでした。
都連が推薦可否を参議院選挙の投開票日である7月10日以降に先送りしたことを受け、後日小池氏は推薦願を取り下げ。
7月14日、都知事選告示(投開票日は7月31日)。有力と言われた候補者は、増田寛也氏(自民党・公明党など推薦)、鳥越俊太郎氏(民進党・共産党・社民党など推薦)、そして小池百合子氏でした。
自民党推薦候補ではない小池氏の陣営に入った自民党所属の地方議員は、私を含む豊島区議5名、練馬区議2名の7名のみ。

小池氏が自民党推薦を得られないかもしれない、という観測は当初からありました。
陣営入りした区議は、小池氏が強行出馬して落選した場合は本人諸共で党を除名になると覚悟していましたが、逆風を跳ね返して当選した場合は違う展望も開けると予測していました。

私は前述の経緯もあったために小池氏が出馬の際は陣営入りする意向を固めていました。しかし有権者への説明が必要になるため、6月29日の出馬意向の記者会見以降に改めて私が小池氏を応援する理由を大きく3つに整理しました。

  1. これまでの人間関係、個人的にお世話になってきたこと
    これには私が前述のように意気に感じたということも含まれます。
  2. 能力や人格などが都知事にふさわしい候補であること
    私は身近に接してきて小池氏の政治家としての能力、人格は申し分ないと思っています。クールビズを我が国に定着させた柔軟な発想力・実現力の他、語学力や答弁力も高いです。全国各地から自腹で応援に訪れた元秘書や元スタッフが多くいたことが小池氏の人望の厚さを物語ります。
  3. 地元の後押しがあったこと
    小池氏を応援すれば私自身も党籍を失うかもしれないという中、後援会幹部は全員一致で小池氏を応援しようと後押しをくれました。地域回りの際にも地元から都知事を出したいというエールを沢山頂くことができました。後顧の憂いなく活動させてくれた地域の方には感謝してもしきれません。

上記の理由に嘘も偽りもありませんが、実は小池氏の応援を決断した後にも何か心に引っかかるものがありました。この理由が分からず何日も自分自身に問いかけ、ようやく答えにたどり着きました。それは私が何年もかけて党内や会派内で築いてきたキャリアを失うのを残念に思っている、という感情でした。生まれ育った地域に貢献すべく地方政治家を志したのではなかったのか、「地方から日本をよくする」という思いだったのではないか。それに比べ何とつまらないことを考えているのだと自分自身を恥ずかしく思いましたが、深層心理にあった自らの感情と向き合えたのは大きな経験です。改めて地方政治家を志した原点に立ち戻った活動をしようと心に刻むことができました。道に迷いそうな時、私はこれをまた思い起こせばよいのです。

陣営入りを決断した後も、勝てるという確信はありませんでした。当初の選挙準備の打合せには小池氏の秘書数名と私たち7名の区議しかおらず、衆議院総選挙よりも小さな所帯で巨大組織を相手に戦い抜かねばならない現実を突きつけられました。

告示日の朝、ベテラン議員の奥様が涙ぐみながら私に声を掛けてくれました。
「細川さんは若くて将来があるのに、こっち(小池氏陣営)に来させちゃって…ありがとうね。」
自民党一筋で20年以上活動してきたベテラン議員が自民党を離れるかもしれない重い選択をしているにも関わらず、私へのお心遣いを奥様はして下さいました。
出陣前に涙は禁物かもしれませんが、私は不覚にももらい泣きしそうになりました。それほど悲壮感漂う船出であったと言えます。
第一声は池袋駅西口、マスコミが多数いる他は衆議院総選挙の出陣時より若干聴衆が多い程度。ここからは日増しに支援者の方が各地で増え、敵失もありながら右肩上がりに伸びていく選挙でした。
17日間の選挙戦を経て小池氏は291万票を得て見事に当選、女性初の都知事誕生の瞬間です。

激しい選挙戦後、既に都連との関係は感情的にもつれており簡単に着地ができる状況ではありませんでした。
9月21日に都連から「党紀委員会の決定について」の文書が7名の区議に対し発出、10月30日までの期限付きの離党勧告処分(従わない場合は除名処分)とする内容でした。
小池氏にはお咎めなし、同じく陣営入りをした党所属の国会議員には口頭による厳重注意のみ、という中で地方議員のみに厳重な処分を行うというもの。
処分のアンバランスさに私たちは反発して離党届を提出せず、その後の話し合いも平行線を辿った結果、12月に7名の区議は除名処分となりました。

除名処分後、豊島区議会に新会派「都民ファーストの会豊島区議団」を結成、年明けには地域政党「都民ファーストの会」を立ち上げ。私は当初の綱領や規約作りにも参画、新党が一過性のものとならないよう検討しました。
29年7月に行われた東京都議会議員選挙の際には裏方として動くと共に、都内全域の遊説を担当。都議選では定数127に対して55名(追加公認を含む)が議席を得て第一党になる躍進。都民ファーストの会が「ふるい都議会を、あたらしく!」と標榜して多くの議席を得た責任は、都政の改革という結果で果たすしかありません。

ここまでは順調でしたが、10月の第48回衆議院総選挙で政策協定を結んだ「希望の党」の大敗で状況は一変。この時を境に党勢は失速しましたが、このチャレンジは前向きに捉える他ありません。当時は国政の自民党への支持が決して弱い時ではありませんでしたが、明確に対立軸となり得る政党が出てきた場合には国民の期待が寄せられる可能性は示せました。

私の短い政治経験の中でも数多の新党が立ち上がっては消えていくのを何度も見ています。
短期決戦でいくつかの選挙には勝っても、大抵は数年しかもちません。
政党を作るには、やはり理念と同時に人間関係が大事となります。順境では仲良く出来ても、逆境時に分裂するのであれば同志とは言えません。
「ビジョナリーカンパニー2」には、「偉大な企業への飛躍をもたらした経営者は、(中略)まずはじめに、適切な人をバスに乗せ、不適切な人をバスから降ろし、その後にどこに向かうべきかを決めている」という調査結果が示されています。
まずは一緒に行動する同志を集める必要があります。

また、私のように所属政党が変わった際、それを理由に人間関係が途切れてしまうようでは、やはり本当の意味で同志とは言えません。
超党派の同志とは全く変わらない付き合いができているし、自民党都連所属議員の中にも少数ですが人間関係が続いている議員もいます。

佐藤一斎の言志四録に、
「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うことなかれ、一灯を頼め。」
とあります。
一灯を提げて暗夜を行く、この一灯は何だろうか。
自らに問いかけ、今後も地域から日本を良くする思いで活動をしていく決意です。

応援いただける方募集中

上に戻る