トップページプロフィール > サラリーマン時代

サラリーマン時代

平成13年(2001年)国土交通省所管の公益法人へ就職

写真 大学を卒業し、建設業界向けの専門誌を作っている国土交通省所管の財団法人に勤めました。
私は土木資材のメーカーや流通業者、建設業者などを回って取材をする調査員でした。

新卒採用で勤めた会社で、社会人としてのイロハを教えて頂きました。
初めて配属になった部署で手本とすべきよき先輩にも恵まれたことは、いま振り返っても幸運だったなと思っています。

私が所属していた法人は建設業界では名の通った専門誌を作っているため、その調査員として各社へ取材に行くと、部長級などの管理職、会社によっては社長や専務が応対して下さることが多かったです。
快く取材に応じて下さった取材先には感謝の言葉しかありません。
取材先との信頼関係を築けたのは、先輩職員の努力の積み重ねの賜物です。

取材では直接の仕事の話しの他に、為になるお話を伺える事もありました。
地方の建設業者やメーカーの創業社長とお会いして創業当初の苦労話しなどを伺う貴重な機会を何度も頂くことができましたし、ここではとても書けないような業界の裏話を伺うのも取材をする楽しみの一つでした。

取材先で仕事に対する姿勢を厳しくご指導くださる方もいらっしゃいました。
1つだけエピソードをご紹介します。

私が勤めて5年程の頃、仕事を覚えて知識もある程度ついてきて、重要度の高い仕事を任されるようになっていました。
ある老舗の業界大手に取材へ行った際のお話しです。
知識がないと質問すらできないため、取材前にある程度知識をつけるなどの準備をするのが仕事の段取りの一つなので、その日も私は周辺情報を集めてから取材に臨みました。
たまたま先方の前任の担当者が部署移動をしたばかりで、上司の執行役員が対応をして下さいました。
ご挨拶もそこそこに、その執行役員の方に
「あなたは新聞を読んでいるか?」と聞かれました。
もちろん毎朝読んでいたので、「読んでいます」と答えました。
「では、今朝載っていた○○という記事は知っているか?」と質問をされました。
私が読んでいたY新聞には載っていなかった記事です。
「私が読んでいる新聞には載っていませんでした」と答えると、
「この業界で話をするなら、N新聞も読んでいないなら新聞を読んでいるとは言えない」と言われました。
会社では取っていた新聞なのですが、この日は朝一番のアポだったので、自分でその新聞を取る以外にこの知識を得る方法はありませんでした。
次に、「○○という業界の専門誌は読んでいるか?」と言われました。
会社ではいくつか業界の専門誌を購読していて、自分の担当に関わるものは目を通していたのですが、その専門誌は購読していないものでした。
「○○は読んでいません」と答えるしかありません。
「業界の人は専門誌を読んでいるのだから、その位やらなければダメだ」
その後、私の仕事に必要な質問にはその方は答えてくださいましたが、このままでは本当に深い情報をお話ししてくれることはないだろうと思いました。
最後に、次までに知識を付けてくるので少し時間をおいてもう一度会ってほしい、とお願いし、この日の取材は終えました。
会社に戻り、教えて頂いた業界の専門誌の購読手続きをすぐに行い、自宅でもN新聞を取るようにしました。
その方と次にお会いしたのは2か月ほど経った後です。厳しいご指摘を頂いた先だったので、訪問どころかアポイントを取るのにすら緊張をしたのをよく覚えています。
取材までの準備もそれまで以上に行い、その方とお会いしました。
その日の最後に
「ちょっとは話せるようになったじゃないか」と言って頂くことができました。
この言葉は本当に嬉しかったです。
その方は半年ほどしか私の対応をする担当ではなかったのですが、私にとっては本当にありがたいご指摘をして下さった方です。
自分の会社の社員でも取引先ですらない私に対して、ご指導をして下さったことは忘れられません。
この経験を境に、仕事に対しての責任感や取り組む姿勢が自分自身でも変わったな、と思っています。
それまでの私には仕事を就業時間内だけで考える甘えがあったのだろうと。
仕事に対する当事者意識が本当にあるのであれば、オフでもアンテナくらいは張っているはず。
本当にいい仕事をするための準備には、普段からの心構えが必要。
仕事の時でなくても常にアンテナを張っていて情報を得るようにすること。
今でもこの時の経験は活きています。

社会人時代に沢山の事を学びました。
公共工事の積算や資材等の知識、企業内労働組合での経験、色々な地域を担当したことによって地域ごとの特性の違いを肌で感じ取れた事など、枚挙に暇がありません。
公私共にお世話になった上司・先輩・同僚・後輩にも本当に感謝しております。
有り難い事に退職後も沢山の方とお付き合いを継続して頂いています。

平成22年(2010年)10月、約10年勤めた会社を退職しました。
社内の人間関係は良好、やりがいのある仕事で安定した生活を送ることができていたのですが、それでも「日本はこのままではおかしくなる。地方から日本をよくする。その為に自分がプレーヤーの一人となる。」という危機感と使命感、思いの方が勝りました。

大学時代の友人のコメント(男性)
大学の頃から政治家になりたいという話は聞いていましたが、まさか本当になるとは思いませんでした。
立候補すると聞いた時は「なんでそんないい会社やめちゃうの?」「子供3人もいるのに養えるの?」と、友人としては諦めさせようとしたのですが、本人は頑として聞き入れませんでした。

平成23年(2011年)3月11日 14時46分 東日本大震災が発生

豊島区でも震度5弱の揺れがあり、家族の安否だけ確認して消防団員としてすぐに出動。
報道で未曽有の大災害となっていることを知り、自然の脅威に対して何もできない無力さを感じました。
公共の交通機関がマヒし帰宅困難となった方が道路に溢れだす、都会の災害に対するぜい弱さを露呈した瞬間でもありました。

政治家でもない自分にできる事は何だろう?
と思い、募金活動と、Blogでは放射線量の数値や計画停電等の情報を纏める記事を書いていました。
当時はまだ情報が錯そうしていましたし、測定結果等の情報を一元化して集めているところが見つからない状況だったからです。

豊島区議会議員(現在)